政治

【欧州最後の独裁国家・ベラルーシ 独裁者編】


ウクライナへの侵攻を開始し、4ヶ月以上にわたって世界を騒がせているロシア。

そんなロシアの隣に、ひときわ異彩を放つ小さな国が存在します。

それは「ベラルーシ」

前編では、国の成り立ちから、ソ連崩壊・独立までのベラルーシの歴史についてお送りしました。

後編では、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれるルカシェンコ大統領についてお届けします!

 

 

ルカシェンコ大統領の独裁政治とは?


他国による長い支配の末、1991年のソ連崩壊とともにようやく独立を果たしたベラルーシ。

民主国家を目指していくと思いきや、暗雲が立ち込めます。

1994年、選挙によってベラルーシの初代大統領に選ばれた「アレクサンドル・ルカシェンコ」によって、独裁政治が始まってしまうのです。

ルカシェンコは1954年生まれで、旧ソ連時代の白ロシア共和国・ヴィテブスク州出身。

生い立ちに関しては不明点が多いものの、母子家庭の貧しい生活を経て農業アカデミーの通信制で経済学を学び、ソ連の大型国営農場・ソフホ-ズの支配人として農業に従事していたことが明らかになっています。

ソ連崩壊前夜の1990年、白ロシア共和国最高会議代議員選挙に立候補し当選、政治家としての活動を始めました。

1991年にソ連が崩壊すると、ようやく独立を果たしたベラルーシ国内は非常に混乱しました。

政治は腐敗していましたが、ルカシェンコはそれを糾弾し、汚職追及委員会の委員長として汚職を糾弾し有権者の支持を集めていきました。

1994年にベラルーシの初代大統領を決定する選挙が行われると、ルカシェンコは圧倒的な得票数で初代大統領に選出されました。

この時ルカシェンコはポピュリズムを掲げており、このあと約30年も続く独裁政治が始まるなど、国民は夢にも思わなかったでしょう。

大統領に選ばれたルカシェンコは国力増強を掲げ、GDPの成長や国民生活の水準向上を達成、ソ連崩壊後の混乱を乗り越えることで国民からの支持を集めました。

一方、1996年には大統領の任期を延長、そして2004年には多選を可能とする憲法改正のための国民投票を実施、任期制限そのものを撤廃し、独裁政治の地盤作りを着実に進めていきました。

また、選挙の不正もかねてから指摘されています。

2006年、2010年の大統領選挙ではそれぞれ約80%の得票率を得て再選していますが、どちらも結果の改ざんが行われていたと言われています。

2020年の大統領選挙では、対立候補を拘束したり、立候補を拒否するなど、なりふりかまわぬ妨害を行いました。

無所属で出馬したスヴャトラーナ・ツィハノウスカヤ氏は、ルカシェンコの妨害によって選挙に出られなかった候補の分まで支持を集めましたが、得票数は10%に届かず、ルカシェンコの6選が決定しました。

ルカシェンコは約80%の得票を得たと発表されていますが、過去の選挙と同じく、この選挙でも結果の改ざんが行われたと言われています。

この結果に抗議した国民は暴動を起こしましたが、3万5000人以上が逮捕され、数十人の死者が発生する事態となりました。

この選挙の後、首都ミンスクでは十万人規模のデモが何度も行われましたが、選挙のやり直しは行われず、ルカシェンコは平然と大統領就任式を執り行いました。

2022年現在、ルカシェンコは6期目で、28年もの長きにわたり権力の座についています。

2022年2月には再度改憲の住民投票が行われ、ルカシェンコの当選回数をリセットし、最長で2035年まで大統領を継続できる体制に変更がなされました。

プーチンの記事でも取り上げたように、独裁者はまず、自身の任期制限を無くすところから始めるのですね。

現在、日本でも改憲が議論されています。

ロシアやベラルーシと同じ轍を踏まないためにも、あらためて日本国憲法についてしっかり考えたいと感じました。

 

 

東京五輪でも起きた!相次ぐ国民の亡命


ルカシェンコの長期独裁の間、批判の声をあげた人がいなかったわけではありません。

しかし、その声は独裁者の強力な権力によってかき消されてしまいました。

ルカシェンコを批判する者は命の危機に晒され国外に逃げる必要があったり、警察に拘束されてしまうのです。

先述の選挙におけるデモでは、拘束された数千人が警察から虐待や拷問を受けたと言われています。対立候補だったツィハノウスカヤ氏も命を狙われ、子供と共に国外に脱出したそうです。

2020年の選挙後、海外へ亡命する人の数はますます増えており、その多くはポーランドやウクライナ、リトアニアといった隣国へ逃げていきます。

2021年に開催された東京オリンピックでも、ベラルーシ代表選手が亡命を表明して話題になりましたね。

陸上のクリスチナ・チマノウスカヤ選手は、競技に出られなくなった他の選手の代わりに、経験したことのない競技に出場させられそうになりました。

彼女はそれを拒否し、自身のインスタグラムで意見を述べたところ、ベラルーシのオリンピック委員会は彼女を強制帰国させようと羽田空港へ連行しました。

彼女は帰国前に祖母から「安全ではないので戻らないように」と伝えられ、日本の警察へ保護を求めました。

保護されたチマノウスカヤ選手には駐日ポーランド大使館から人道ビザが発行され、無事ポーランドに亡命、その後夫と再会できたそうです。

ちなみに、彼女を強制連行しようとしたベラルーシオリンピック委員会の会長は、ルカシェンコの長男・ヴィクトルが務めており、大統領の息がかかった組織であることは間違いありません。

また、この騒動のさなかには、ウクライナの首都キエフ(キーウ)で亡命者支援団体「ウクライナ内のベラルーシの家(BHU)」を主催するヴィタリー・シショフ氏が遺体で発見され、殺人事件として捜査が行われました。

彼はかねてからベラルーシ政府に目をつけられており、死の直前には「最近何者かに尾行されている」と周囲に漏らしていたそうです。

この2つの出来事がきっかけで、ヨーロッパのみならず世界中にベラルーシの異常性が知れ渡ることになりましたが、ルカシェンコの独裁は未だ止まるところを知りません。

全てのベラルーシ人が、命を脅かされることなく平和に暮らせる日が来ることを願ってやみません。

 

ルカシェンコvsプーチン!ロシアとの関係


ロシアとベラルーシは隣国であり、ロシアによるウクライナ侵攻も相まって、その関係性が注目されています。

一般的にはベラルーシはロシアの従属国であると認識されているのですが、ルカシェンコの動きを振り返ると、ベラルーシを掌握しようとするロシアに対し、ルカシェンコが抵抗しているという図が見えてきます。

1999年、ルカシェンコは当時のロシア大統領・エリツィンとの間で、両国の統合を目指す「ロシア・ベラルーシ連盟国創設条約」に調印し、ロシアとベラルーシは連合国家になる予定でした。

しかし、2000年にプーチンがロシア大統領になると、ベラルーシを併合しようと考えるプーチンに対してルカシェンコが反発、連合国家の構想は立ち消えになり、両国の関係は悪化しました。

2010年には両国の間で天然ガスをめぐる紛争が勃発し、さらに対立は深まると思いきや、ルカシェンコは関係を修復すべくロシアの要求を飲む形で決着をつけました。

2015年にはロシア主導のユーラシア経済同盟に参加。長らくソ連的な社会主義体制を続けてきたベラルーシでしたが、ロシアの圧力には勝てなかったのでしょうか、自由経済への一歩を踏み出しました。

2020年代に入ってからはロシアとの関係を急速に修復させながらも、中国との関係も深めています。

背景にあるのは、独裁者・ルカシェンコの国際社会からの孤立です。

欧米諸国はルカシェンコの独裁体制をかねてから批判し続けていましたが、2020年の選挙でのデモ弾圧や非人道的行為が明らかになると、ベラルーシはさらに国際社会からの批判を浴びることになりました。

ロシアとは付かず離れずの距離を保ってきましたが、ここ数年は急激に関係を修復しつつあります。

原発事故や大虐殺といった悲しい過去を持つ国だけに、戦争には参加しないで欲しいですね。

 

まとめ


ルカシェンコは現在67歳で、そろそろ引退を考え始める年齢に差し掛かっています。

ルカシェンコを支持する層も高齢化しており、国内ではすでに求心力が低下しています。

ルカシェンコが後継者を据えるのか、それともプーチン率いるロシアに併合されるのか、はたまた新しい指導者が登場して国を変えていくのか、今後のベラルーシに注目ですね。

ウクライナ問題では表立った動きはせず、しばらく静観を続けていますが、今後ベラルーシがロシアを支援したり、逆に裏切るような動きをするのではないかと予想する人もいます。

ベラルーシは、今後の国際社会をガラッと変えてしまう、ジョーカーのような存在になるかもしれませんね。





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