政治

【ロシア】ソ連の最初で最後の大統領・ゴルバチョフについて


ソ連最初で最後の大統領、「ゴルビー」ことミハイル・ゴルバチョフ氏。

たびたび来日し、日本での人気も高かった彼は、なんと今も存命中!(91歳!)

今回は、ゴルバチョフについて深掘りしてみたいと思います!

 

 

 

政治家としてのゴルバチョフ


ゴルバチョフは、レーニン、スターリンと並びソ連時代のロシアを象徴する人物です。

ソ連を崩壊に導いたソ連の最初で最後の大統領の半生を調べてみました。

 

生い立ちについて

 

ミハイル・ゴルバチョフは、1931年3月2日、ロシア南部のスタヴロポリ地方で農民の子供として生まれました。

1930年代のロシアは、スターリンのもとで集団農業化政策が行われていた時代であり、ゴルバチョフの家族も集団農場(コルホーズ)の農民であったそうです。

1941年、ロシアでも第二次世界大戦(独ソ戦)が始まり、父親は徴兵され、自身も働きに出るという苦しい生活を送っていました。

一方で学校では優秀な成績をおさめ、1950年、19歳の時にロシアきっての名門大学「モスクワ大学」に進学しました。

モスクワ大学では法学を学び、のちに妻となるライーサと出会いました。

大学在学中の1952年には、ソ連共産党に入党しています。

大学卒業後、検察庁への就職に失敗し、地元に戻ってソ連共産党の活動を行うこととなりました。

若く優秀でやる気のあったゴルバチョフは、とんとん拍子で出世の階段を登ったといいます。

地元・スタヴロポリ地方でさまざまな役職を務めたのち、1971年、40歳で党中央委員に選出されました。

同年生まれで、のちに政敵となったボリス・エリツィンは、このころ政治活動を本格化したばかりでした。このことを考えると、ゴルバチョフがいかに早く出世していったかがわかりますね。

 

若かりし頃のゴルバチョフ。イケメンだとたびたび話題になっています。

 

 

1978年には党中央委農業担当書記に任命され、地元を離れモスクワで働くことになりました。

このころからゴルバチョフの評価はさらに上がっていき、翌年には政治局員候補に選出、さらに翌年の1980年には史上最年少の政治局員に抜擢されました。

このとき、ゴルバチョフは49歳。

実質的な国家の意思決定機関である政治局のメンバーに若くして選出されたことで、ゴルバチョフの地位はさらに確実なものとなりました。

そして、政治局員就任からわずか5年後の1985年、ついに彼はソ連のトップである「書記長」の座に上り詰めました。

 

大きな方向転換「ペレストロイカ」

 

書記長となったゴルバチョフはまず最初に、ロシア語で「立て直し」「再建」を意味する「ペレストロイカ」を始めました。

内容は、長期にわたる独裁のもとで完全に社会主義に染まったソ連を、民主的な方向に改革するものでした。

あくまでも社会主義の中での民主化でしたが、国民には表現・信教・集会の自由などの権利が認められたり、市場経済や複数政党制が導入されるなど、共産圏のみならず西側諸国にも衝撃を与える改革を行いました。

また、1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故(ここでは発災当初の呼称「チェルノブイリ」としていますが、最近は「チョルノービリ」と呼ぶようですね)をきっかけに、「グラスノスチ」と呼ばれる情報公開も進めていきました。

チェルノブイリ原発事故では情報の伝達がうまくいかず、国のトップであるゴルバチョフの元にさえ必要な情報が届かなかったため、彼は非常に憤慨したと言われています。

そして、事故の情報が適切に公開されなかったことで、ソ連国内だけでなく、周辺他国への被害も甚大になってしまいました。

事故があったことが公表されたのは、なんと事故から2日後の4/28。

それも、スウェーデンの放射線量が異常な数値を計測したことで情報を隠しきれなくなったため、ようやく公表に踏み切ったのです。

きちんと情報が公開されていれば、4万人以上ともいわれる多数の死者を出さなくて済んだに違いありません。

この原発事故をきっかけに急激に推進されたグラスノスチでは、政府の管理下にあったマスコミに報道の自由を与え、今まで公開されてこなかった国家の情報を国民に開示するようになりました。

また、スターリンの大粛清について正しい情報が公開されたことで被害者の名誉回復に繋がったり、上映が禁止されていた映画が続々と公開されたり、国家機密であった軍事関連情報が公開されるようになったりと、グラスノスチは各方面にさまざまな影響を与えました。

 

日本や西側諸国でゴルバチョフの人気が高いのは、こういった民主化政策や情報公開を積極的に行ったからではないかと思われます。

しかし、ロシア国内ではゴルバチョフは全く評価されていないどころか、まるでなかったもののように扱われています。

なぜなら、これらの民主化政策は、「強国ソ連」の崩壊へのカウントダウンの始まりだったからです。

 

政策の失敗と大国ソ連の崩壊

 

ペレストロイカによって民主化が進んだソ連でしたが、国民に良い結果をもたらしたとは言えませんでした。

ペレストロイカによって導入された市場経済は中途半端だったため、国内はかえって混乱しました。1989年頃からは物資不足や物価上昇によるインフレが起き、国民の生活を直撃。

多くの国民が貧困生活を強いられることとなりました。

一方で、グラスノスチによって共産党幹部の汚職や「共産貴族」とも呼ばれる豪華な暮らしが明らかになり、貧困にあえぐ国民の反発はさらに高まっていきました。

上記の理由に加え、エリツィン率いる急進派の台頭もあいまって、ゴルバチョフの人気は低下の一途をたどりました。

1991年には、ソ連崩壊の決定的なきっかけになったといわれる「8月クーデター」が勃発。

このクーデターを実行したのは、KGB議長や副大統領など、ゴルバチョフの側近たちでした。

ゴルバチョフは家族とともに軟禁され、殺害される一歩手前だったと言われています。

ゴルバチョフはクーデターの被害者でありながらも、その首謀者は彼の側近だったため、皮肉なことにゴルバチョフ自身と共産党への信頼は地に堕ちてしまいました。

この8月クーデターのあと、たった10日間でソ連共産党は資産凍結・活動停止にまで追い込まれました。同年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任、大国ソ連はあっけなく崩壊を迎えました。

 

ゴルバチョフの政敵・エリツィンについてはこちら

 

ソ連崩壊〜現在のゴルビー


ソ連崩壊後、ゴルバチョフは「ゴルバチョフ財団」を設立し、環境問題への取り組みを本格化しました。

ピザハットやルイ・ヴィトンといった名だたる有名企業の広告に出演、その出演料を環境保護団体に寄付するなど、精力的に慈善活動を行いました。

 

一方で政治活動も引き続き行い、1996年の大統領選に出馬しました。(しかし得票数0.5%という残念な結果に)。2004年まで活動を続けたのち、政界から身を引きました。

 

現在91歳のゴルバチョフ。コロナウイルス対策のため、医療施設で隔離生活を行っているそうです。

ウクライナ侵攻問題については、「欧米との対話が必要だ」と、やはりゴルバチョフらしい意見を述べています。

彼はソ連を崩壊させ、東西冷戦を集結させた立役者ではありますが、ロシア国民からは「強国ソ連を壊した戦犯」という、残念な評価を受けています。

このリベラルな思想が国民に受け入れられていたら、現在のウクライナ問題は起こることがなく、北方領土問題も解決に向かっていたのでは・・・と思わずにはいられません。

しかし、ロシア国民が求めているのは「強いロシア」「強い指導者」なんですよね。

歴史を紐解くと、邪智暴虐なプーチンが人気を集めている理由がなんとなくわかるような気がします。

 

実は親日家?日本とのかかわり


ゴルバチョフは、ロシア国内での評価は低いものの、アメリカや日本をはじめとしたかつての西側諸国からは高い評価を受けています。

特に日本での人気は高く、彼をテーマにしたファミコンゲーム「ゴルビーのパイプライン大作戦」が発売され、「ゴルビーブーム」が巻き起こったほどでした。

 

こちらはソ連大統領だった1991年に来日を果たした時の貴重な映像!

 

ソ連崩壊前夜には、意外なところで日本との関わりが。

1991年の8月クーデターで家族とともに軟禁された際、彼を救ったのは「SONYのラジオ」だったといいます。

軟禁された部屋にSONYのラジオが置いてあり、ラジオを聞いて自分を助けようとしてくれている仲間がいることを知ったゴルバチョフは、希望を捨てずに生き延びることができたそうです。

ソ連崩壊後、ゴルバチョフは幾度となく来日し、その度に各地で講演会を開催していたそうです。日本大学や創価大学といった有名大学でも特別講演を行い、名誉博士号を授与されています。

また、彼は何度もテレビ出演を果たしています。

テレビ朝日「徹子の部屋」には2001年と2005年に2度出演しました。

残念ながら動画は見つかりませんでしたが、すでに亡くなった最愛の妻ライザさんの話、孫や娘の話、好きな詩の話などをしたそうです。

その後、黒柳さんとの交流は続き、2014年に黒柳さんが「笑っていいとも!」に出演した際はゴルバチョフ財団名義でお花が届いて話題になりました。

タモリさんも思わず「これ、本物?」と聞いてしまうほど(笑)

黒柳さんは、「ゴルバチョフさんと私、お友達」と、平然と返答したそうです😂

 

2010年に来日した際は、日テレの「世界一受けたい授業」に出演。

「ノーベル平和賞!ゴルビー先生のこんなものいらない!核兵器のない未来へ」という題名で講義を行いました。

同年に再来日し、フジテレビ「SMAP×SMAP」にも出演。ジョークを交えながら楽しそうに話す姿が印象的ですね。

スマスマ出演時の貴重な映像が残っていました!

 

北方領土問題やウクライナ侵攻、プーチンの強気な外交などから「敵国」というイメージが強いロシアですが、ゴルバチョフのような親日家もいるんですね。

彼は現在コロナ対策のため隔離中なので、しばらく訪日する予定はないと思われますが、今後来日する機会があったらまたたくさんのメディアに出て欲しいですね。

 

まとめ


今回は、「ソ連最初で最後の大統領」ミハイル・ゴルバチョフについて調べてみました。

ペレストロイカは失敗に終わり、結果的にソ連を崩壊に導いたゴルバチョフですが、彼が目指していた民主的なロシアの完成を見てみたかったというのが本音です。

ペレストロイカが成功していれば、現在の国際的な緊張は起きず、ロシアの非核化も成功していたのではないかと思ってしまいますね。

20年以上に渡りプーチンの独裁が続いているロシアに、またゴルバチョフのようなリベラルな政治家が出てくることを祈ります。

 





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