政治

【ロシア】プーチンの師匠、ボリス・エリツィンとは


現在、世界を大いに騒がせているロシア。

プーチンの半生やさまざまな疑惑については、以前の記事でご紹介しましたね。

ロシアはなぜあんな国になってしまったのか?なぜ国民は独裁を受け入れているのか?

日本人からすると疑問が多いと思いますが、それにはロシアという国の過去が大きく関わっています。

今回は、プーチンを後継者として指名した張本人である、元大統領ボリス・エリツィンについて深掘りしていこうと思います!

 

 

 

ボリス・エリツィンとは?


ボリス・エリツィンは、プーチンが20年に渡る長期政権を築く前に、ロシア大統領を務めていた人物です。

サムネイルの動画では、左側に立っている人物です。爆笑するクリントン大統領と並んで、ニコニコしている姿が印象的ですね。

エリツィンはソ連を崩壊させた立役者でありながら、ゴルバチョフやプーチンの影に隠れ、日本ではあまり有名ではないように思えます。

特に、ソ連崩壊後に生まれた若者たちにとっては、ロシア=プーチンのイメージが強く、エリツィンを知らない人も多いのではないでしょうか。

プーチンとの関係は後述するとして、まずはエリツィンについてまとめてみました。

 

労働者から政治家へ

 

エリツィンはソ連時代の1931年、ロシア西部のウラル地方で農民の家に生まれました。

地元・ウラル地方で工科系の技術者を育成する「ウラル工科大学」(現在のウラル連邦大学)に進学しました。

大学卒業後は建設企業で働き、どこにでもいるごく普通の労働者でした。

転機となったのは1968年。約15年勤めた建設業の仕事をやめ、ソビエト連邦共産党の政治活動に専念することとなりました。

この時エリツィンは40歳近くになっており、政治家として活動を始めるのは比較的遅かったと言えます。

地元ウラル地方で共産党の活動に邁進し、その働きが認められた結果、1985年、53歳のときに党中央委員に選出されました。

しかし、当時ソ連の書記長であったゴルバチョフの政策を公然と批判し続けたことで、党内でエリツィンへの風当たりが強くなってしまいます。

当時、モスクワ市の党第一書記に任命されていたエリツィンですが、このことで役職を奪われてしまいました。

 

ソ連共産党離党、そして一気にロシア共和国大統領へ

 

ところが1989年、人民代議員大会選挙(日本でいう国会のようなもの)に出馬し当選します。

電撃的な政界復帰を果たし、改革派のリーダーとして力を増していったエリツィンは、翌年にはソ連共産党を離党しました。

共産党という大きな後ろ盾がなくなり大ピンチかと思いきや、エリツィンの人気は止まるところを知りませんでした。

ロシア史上初の直接選挙となった1991年のロシア大統領選挙で50%以上の得票数を得て、とんとん拍子でロシア共和国の大統領に就任することになりました。

この選挙でエリツィンが大勝したことにより、ソ連大統領・ゴルバチョフの威信は低下します。

さらに、ソ連崩壊のきっかけとなった8月のクーデターによって、ゴルバチョフの威信はさらに低下し、ロシア共和国がソ連より優位に立つようになりました。

ゴルバチョフと敵対関係にあったエリツィンは、ロシア共和国大統領として、ロシア共産党の資産を没収、そして活動を全面的に停止させ、共産党を解体に追い込みます。

1991年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、かつては世界トップクラスの大国だったソ連はあっけなく崩壊を迎えました。

エリツィン率いるロシア共和国はソ連の継承国となり「ロシア連邦」として新たなスタートを切ることになりました。

ウラル地方の農民出身で、40歳近くまでただの労働者だったエリツィン。

そんな彼があっという間に大国ソ連を崩壊させ、新しいロシアを築き上げていくことになるとは、誰も想定していなかったでしょうね。

 

Youtubeにソ連崩壊時の会見が上がっています。空耳の字幕がついているので爆笑必至です(笑)

 

エリツィン時代のロシア政治 


あっという間に大統領の座について、ソ連崩壊まで成し遂げてしまったエリツィン。

ロシア連邦の初代大統領として、その手腕を発揮すべく奔走します。

 

裏目に出た経済改革

 

エリツィンがロシア連邦の大統領としてまず取り掛かったのは経済改革です。

ご存知の通り、ロシアはソ連時代、社会主義国でしたね。

そこで、ロシアを資本主義化すべく、まずは貿易・価格・通貨の自由化を実行しました。

そして同時に金融引き締めを行い、産業への補助金や福祉関連の支出などを大幅に削減していきました。

しかし、長らく共産主義だった国を市場経済化することは容易ではなく、ハイパーインフレを引き起こしてしまいました。

収入は減り、失業者は増え、GDPも大幅にマイナスとなり、国民の生活は一変してしまいました。

 

新興財閥「オリガルヒ」の出現とチェチェン紛争

 

また、ソ連時代の名残であった国営企業の民主化にも乗り出し、国民ひとりひとりに国有企業の株式を与え、自由に売買をさせる「バウチャー方式」を取り入れました。

当初は、従業員持株会社とすることで、従業員のモチベーションを引き上げて民営化を成功させることを目的としていましたが、長らく社会主義国で生きてきた国民に浸透するはずもなく、株式は国営企業に安く買い叩かれることになりました。

その結果、政策に乗じて富を築いた「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が出現し、国の権力者たちはオリガルヒと癒着するようになりました。

エリツィンとオリガルヒは関係を強固なものとしましたが、労働者層、特に低所得者層からの反感を買うこととなってしまい、支持率は徐々に低下していきました。

また、ソ連時代にジェノサイドを受けており、脱ロシアを目指していた「チェチェン共和国」との問題が噴出し、「第一次チェチェン紛争」が勃発します。

エリツィンはロシア軍を派遣しましたが、チェチェン軍の猛反撃にあい撤退してしまいます。

紛争はチェチェン共和国の実質的勝利となり、エリツィンの支持率はさらに低下の一途をたどります。

 

なりふりかまわない保身と独裁

 

大統領の任期が満了に近づき、2選目を目指したエリツィンでしたが、先述の理由により支持率は低下したままで大苦戦を強いられました。

そこで、新興財閥オリガルヒに巨額の政治資金を提供させ、オリガルヒの所有するテレビや新聞といったメディアを利用するなど、もはや不正スレスレのキャンペーンを行い、なんとか再選を果たしました。

2期目では、大統領に次いでロシアナンバー2の地位にある首相を次々に任命しては解任するという奇行に走ります。

就任後、何かと理由を押し付けて2人の首相を相次いで辞任させ、経済を復活させ人気と実力を兼ね備えたプリマコフ首相さえも解任してしまいます。

自分を脅かす者を潰しておきたかったのでしょうか。それとも権力を誇示したかったのでしょうか。

このあたりに、今のロシアとつながる「恐怖の独裁政治」が垣間見えますね。

そしてこの頃、元スパイであるプーチンが台頭するようになりました。

 

エリツィンとプーチンの関係


本来は国民のために尽力すべき立場だったはずにもかかわらず、エリツィンは自らの保身と権力の誇示に明け暮れ、それは晩年に向かうにつれて顕著になっていきました。

 

プーチンの台頭、そして引退

 

権力に固執したエリツィンの晩年を華々しいものとしたのが、他でもない現ロシア大統領、ウラジーミル・プーチンです。

エリツィンの独裁に耐えかねた者たちは、彼を失脚させることを目論みましたが、それを未然に防いだのがプーチンでした。

プーチンは、エリツィンへのクーデターを未然に防ぎ、エリツィンの汚職を追っていた検事総長・スクラトフを女性スキャンダルで失脚させることにも成功し、エリツィンから絶大な信頼を得ることになりました。

そして、エリツィンはプーチンを自らの後継者に指名しました。

プーチンという後継者ができて安心したのか、もしくはタイミングを計らっていたのかはわかりませんが、エリツィンは1999年末に大統領職を自ら辞任し、その座をプーチンに譲り渡します。

プーチンが大統領になって最初に署名したのは、「大統領経験者とその一族を生涯にわたって刑事訴追しないこと」を約束する大統領令でした。

エリツィンはこの大統領令のおかげで、現役時代の数々の汚職や不正を追求されることなく、穏やかな年金生活を楽しんだといいます。

ロシアの独裁政治の礎を築きあげたエリツィンは、76歳のときに病気で死亡しました。

 

まとめ


ウクライナ侵攻に関連して、「ロシア国民はどうしてプーチンを支持しているんだ?」という批判の声も多いですよね。

でも、歴史を深掘りしてみると、国民のために尽力するための大統領が、権力や資金を我が物にし、それを利用することで国民を操ってきたことがわかります。

プーチンも、いずれは後継者を迎え、自身の行いを正当化するように仕向けるのでしょう。

日本でも、某有名企業が、某政治家のパーティーに商品を無償で提供していたことが取り沙汰されていますよね。

私たちにも、政治家をきちんと判断する目が求められると感じました。

「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがあるように、ロシアについて考えると同時に、自分の国についてもしっかり考えてみたいですね。

 





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