いまから約40年前、JALのある機長が飛行機墜落事故を起こしました。
精神分裂症(統合失調症)を患っていたとされ、そんな機長を搭乗させたJALの管理体制にも批判が殺到しました。
今回の昭和平成ノスタルジアは、日本航空350便墜落事故についてお届けします。
hana
機長がわざと飛行機を墜落させる事件があったなんて、全然知らなかったよ。
ハチ子
機長が真っ先に救助されたことで大きな批判を浴びたらしいわよ。
1982年2月9日(火曜日)、日本航空350便は羽田空港沖に墜落し、24人が死亡・149人が負傷しました。
350便には乗員乗客174人が搭乗しており、機長は片桐清二という35歳の男性で、1969年に日本航空に入社しました。
事故機である「ダグラスDC-8-61」は1967年に製造され、日本航空が1973年に購入しました。
事故機は訓練機として使用されており、離着陸回数が多かったため、老朽化が事故原因の一因と考えられました。
しかし、事件の真相が明らかになるにつれ、老朽化が直接の原因ではなかったことが明らかになっていきます。
350便は福岡空港を出発し、巡航高度の29,000フィートまで上昇しました。
その後、着陸に備え、管制官の指示により羽田空港沖で降下を開始しました。
8時43分、副操縦士が操縦桿を操作して機長にコールを行いましたが、機長は応答しませんでした。
副操縦士は決心高度を示す「ミニマム」をコールしましたが、機長は適切な応答をせず、「チェック」としか返答しませんでした。
8時44分、機長は自動操縦を解除し、操縦桿を前に押し、スロットルをアイドル位置に戻しました。
航空機関士はエンジンの回転数の低下に気づき、「パワー・ロー」と叫びました。
機長はさらに第2エンジンと第3エンジンのスロットルを逆噴射位置に操作しました。
副操縦士は機体の異常な姿勢と操縦桿の操作に気づきましたが、機長が引っ張ることを妨げていたため、操縦桿を引くことができませんでした。
8時44分07秒、350便は高度164フィートを飛行中、130ノットの速度で東京湾に墜落、機体は海に叩きつけられました。
墜落後、副操縦士は片桐機長に対して状況を問いただしましたが、機長は泣き出してしまいました。
航空機関士は意識を失い、救助されるまで40分を要しました。
墜落現場にはすぐに救助隊が到着し、水上救助艇やヘリコプターを使って乗員乗客の救助活動が展開されました。
一部の生存者は自力で脱出することができましたが、機体の状態や水中での救助活動の困難さから、乗員乗客174人中24人が死亡・149人が負傷するという最悪の結末になりました。
さらに、機長には乗客救護義務があるにもかかわらず、片桐清二機長は乗客に紛れて真っ先に救助されていたことが明らかになり、大きな批判の的となりました。
調査委員会は事故の主な原因として、機長の操作ミスおよび認識不足を挙げました。
機体の老朽化も事故の要因の一つであるとされましたが、機長が誤った操縦操作を行ったことが一番の引き金となりました。
実は機長は、この事故を起こす約5年前の1976年頃からうつ病を患っており、1978年から1981年までの3年間は業務から外れ療養していました。
復職にあたり、医師は飛行可能の診断を下して職場復帰を果たしましたが、機長は「ソ連が日本を破壊する」「敵に捕まるより、自分から先に死んだほうがマシだ」などの妄想・妄言を繰り返しており、飛行機を操縦できる精神状態ではなかったと推測されます。
事故当日も「イネ・・・イネ・・・(死ね)」という言葉が聞こえてきたと証言しており、この声に引き寄せられる形で操縦桿を押し込み逆噴射を起こしたとされています。
また、機長は事故の前日にも不可解な操縦を起こしていましたが、副操縦士はこれをJALに報告していませんでした。
鑑定の結果、機長は「精神分裂症」(統合失調症)を患っていると診断され、業務上過失致死罪の疑いで逮捕こそされたものの、その後不起訴になっています。
この事故を受けて、航空業界は安全対策の強化を行いました。
操縦クルーの訓練や意識向上の重要性が再認識され、コミュニケーション手順の改善や疲労管理の強化などが行われました。
また、航空機の定期的なメンテナンスや老朽化対策も重要視されるようになりました。
事故後、片桐清二機長は都内の病院に入院し、約1年後にJALを諭旨解雇されています。
存命であれば現在70代半ばで、神奈川県葉山町で悠々自適な生活を送っているとのこと。
元CAである妻の実家は医者の家系といわれているため、お金には不自由のない生活を送っているのかもしれませんね。
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