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【生き残ったのはたった4人】日本航空123便墜落事故


1985年に発生した日本航空123便の墜落事故では、乗客乗員524人のうち520人が犠牲となり、単独機の航空事故としては過去最多の死亡者数となりました。

 

User 1

hana

520人が死亡した大事故。今でも毎年追悼が行われているよ。

User 2

ハチ子

歌手の坂本九さんが犠牲になったり、明石家さんまさんが奇跡的に搭乗を回避していたことでも有名よね。

 

日本航空123便墜落事故の概要


123便は羽田空港から伊丹空港への定期便であり、機体の圧力隔壁の破損により操縦不能となり、群馬県の山岳地帯・御巣鷹の尾根に墜落しました。

「日航機墜落事故」という呼称や「日航ジャンボ機墜落事故」という呼称で広く知られています。

この事故は夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったため、多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えました。

死亡した520人には、歌手の坂本九さんや元宝塚歌劇団の娘役・北原遥子さん、阪神タイガース球団社長の中埜肇さん、ハウス食品工業社長の浦上郁夫さんら、多くの著名人・実業家も含まれていました。

また、123便を日頃から利用しており、当日も搭乗予定だった明石家さんまさんは、当日の急な体調不良により直前で搭乗をキャンセルしており、奇跡的に命拾いしました。

その他、女優のいしだあゆみさん浅野ゆう子さん、漫才師の西川のりおさんジャニー喜多川さんらも搭乗予定であったものの、直前で搭乗をキャンセルしていました。

彼らがもし予定通り搭乗していたら、今の芸能界は全く違ったものになっていたかもしれません。

 

多くの死者を出した123便の事故原因は?


1987年に運輸省航空事故調査委員会が公表した事故調査報告書によると、事故原因はボーイング社による圧力隔壁の不適切修理による破損とされています。

実はこの事故が起きる約7年前の1978年6月、当機体は機体後部を滑走路面に接触させる「しりもち事故」を起こしていました。

この事故によって当機体はボーイング社による修理が行われたのですが、この時の修理の不備が、123便の事故の直接の原因となってしまいました。

圧力隔壁の修理を行った際、「リベット」と呼ばれる部品において、本来繋がっていなければならない部分が分断されていました。

画像出典:Wikipedia

 

ボーイングによる不適切修理によってリベットが金属疲労を起こし、垂直尾翼が破壊され、油圧系統がすべて損傷して大事故を引き起こすことになったのです。

事故原因が明らかになるにつれ、「パイロットのスキルによっては事故は回避できたのでは」「海上に墜落させた方が犠牲者が少なかったのでは」という指摘が相次ぎましたが、その後の調査によって、123便の機長・副機長は最善を尽くしており、誰が操縦しても同じような結果を招いたと結論づけられています。

 

機内の状況と救助活動


事故発生時の機内では、まず衝撃音とともに酸素マスクが降り、乗客は指示に従って対応しました。

生存者の証言によれば、初めはパニックにはならず「まだ何とかなる」という雰囲気が広がっていましたが、時間が経つにつれて機体の揺れが大きくなると、客室乗務員が立っていられなくなったり乗客が遺書を書き残したりと、雰囲気が変わっていったそうです。

8月12日の18時56分、機体は尾根に激突し墜落。

損傷のひどかった前部の乗客乗員は全員死亡しました。

前部の乗客の遺体は損傷が激しく、手足がない遺体も多かったようです。前部では火災も発生したため、丸焦げになって発見された遺体も多くありました。

比較的損傷の少なかった後部では4人の生存者が発見され、死亡した乗客の遺体も気絶しているのかと見間違うほど綺麗な状態で発見されたといいます。

普段は人が立ち入ることのない原生林での捜索は非常に難航し、一人目の生存者が発見されたのは翌朝13日の10時50分頃でした。

21時30分の群馬・長野の陸上自衛隊への派遣要請から11時間30分後の翌朝9時まで現場に到達することはできなかったため、事故直後は生存していた犠牲者も多くいたものの、生存した4人をのぞいた全員がすでに死亡していました。

救出が早ければ生存者が増えた可能性もあり、その後の非常時における救出活動を見直すきっかけになりました。

 

事故が航空業界に与えた影響


日本航空123便墜落事故は、航空業界に非常に大きな影響を与えました。

事故発生の4ヶ月後の1985年12月5日、国家運輸安全委員会(NTSB)は連邦航空局(FAA)に対し、8項目の改善勧告を行いました。

FAAはこれに対応して、B747の垂直尾翼に与圧空気が入らないように覆いを取り付けることを義務化しました

また、尾部が破損しても油圧系統が喪失しないように作動油流出防止装置が導入され、新造機の設計変更も行われました。

事故の犠牲者の遺族は、1985年に遺族会「8・12連絡会」を結成し、事故原因の究明や航空安全の推進を目指して、JALやボーイングなどの関係者や社会全般に訴える活動を行いました。

連絡会内には原因究明部会や技術部会が設置され、独自の研究活動も行われました。

技術部会は後に「航空安全国際ラリー組織委員会」として独立し、航空安全シンポジウムの開催や墜落時の衝撃を和らげる座席の開発提言などを行いました。

その結果、2009年には全米航空惨事被災者同盟から航空安全賞を受賞するなど、国際的な航空安全に貢献しました。

事故の影響は旅行業界にも波及しました。

事故が発生した1985年度には、国内線旅客数が前年度比で2.1%減少し、各航空会社の経営状況も悪化した一方、新幹線の旅客数は飛躍的に増加し、9.8%増となりました。

 

事故機の残骸は、警察や検察庁の事故検証を経て、遺族会がJALに請願を受け入れる形で、日本航空の成田空港にある格納庫内に保存されることとなりました。

 

まとめ


今回は「日本航空123便墜落事故」について取り上げました。

単独機の飛行機事故としては最大である520人もの死者を出したこの事故は、航空業界全体の安全意識を大きく変えるきっかけにもなりました。

同じ過ちを繰り返さないために、私たちは過去から教訓を学ぶ必要があります。

 

 

 





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