住んでたといっても半年ぐらいなのだが、大学2年の時、1992年秋から93年2月にかけて、オレゴン州立大学という地方のローカル大学に交換留学生として留学していた。
9.11よりも10年近く前の時期で、もう25年も前のことになる。
オレゴン州立大学はコーバリスというポートランドから車で2時間弱のオレゴンの田舎町にあった。コーバリスは大学を中心として、それ以外は特に何もない街だった。
大学の中にある学生寮に、アメリカ人でクリスチャンのルームメイトと住み、生活の大半は学内で完結。キャンパスはとても広いので、教室の移動などはだいたい自転車でするという生活だった。
カリキュラムは語学を中心に組まれていて、当たり前だけど全ての授業は英語で行われていた。語学のクラスは日本人ばかりだったので、気をぬくと日本語で話してしまうことも多く注意を受けることもあった。
授業以外の活動としては日本人学生自治の活動なんかにも参加をしていて、成人式に当たるパーティの企画や留学生をサポートするグループの活動なんかも行っていた。
放課後は近くのスーパーマーケットに買い物に行ったり、コーバリスのダウンタウンのレコード屋に行ったり、学内のカフェでお茶をしたりして過ごした。学内にゲームセンターもあって、そこで当時流行ってたストリートファイター2を飽きるほどやった記憶がある。平日は時間が中途半端なので意外と暇なのである。
十月のサンクスギビングの時期と年末年始のクリスマスシーズンに休みの時期が大きく2回あって、大半の留学生はその期間は旅行に出ることが多かった。
僕は、サンクスギビングにはサンフランシスコへ、クリスマスには東海岸へ、旅行した。
サンフランシスコはなんとなく坂道があって洒落ているイメージがあったので選んだ。その頃はシリコンバレーなんていう言葉もなかったし(知らなかっただけ?)、そもそもIT関連の職業に就くなんていうことはみじんも思っていなかった。一人で行こうと思ってたので、最初は比較的近場を選択したというのもあった。
初の海外での一人旅だったので、ドキドキしながら行ったのだが、特に危険な目にもあわず、以外と大丈夫なものだなという感覚を得ることができた。
冬はバッファロー=>ニューヨーク=>フィラデルフィア=>ボストン=>ワシントンD.C.という順序で東海岸を回った。
バッファローはナイアガラの滝がある街だが、なにぶん冬場なので滝は完全に凍っていた。夏場に来るべき場所である。バッファローからニューヨークへはアムトラックという列車で行くのだが、これが驚くほど遅くて、7時間ぐらいかかった。最近は改善されているのかもしれないが、その時は日本の鉄道状況は優秀なのだなあと思った記憶がある。
ニューヨークはビル風が強くとても寒かった。色々と歩き回ったがさすがに都会だなという印象を受けたが、日本の新宿渋谷かとそれほど変わらないなとも思った。行ってはいけないと言われていたハーレムにも行って、アポロシアターの外観を見たり、マックに入ってメニューが違うことに驚いたりもできた。
この時が初めての海外だったのだが、知らない土地に行ってその土地で暮らす人の生活を感じるということの楽しさを学んだのではないかなと思う。以来、旅をするときの、観光地より街を見ることを中心にするというスタイルは変わらない。
アメリカには実はこのとき以来行っていない。
以下写真。
デジカメなんてなかったのでアナログのカメラで撮影した写真なので、見事にセピア色になっている。
サンフランシスコに旅行した時。
サンフランシスコベイのクルーズに乗った時に飛んでいたかもめ。
たくさん飛んでたので思わずパシャり。
ダウンタウンのホテルの部屋から。今みたいにITベンチャーが立ち上がる前のサンフランシスコは、おみやげ物屋が多くて、観光の街という印象だった。
東海岸を回った時に立ち寄ったフィラデルフィアのエドガーアランポーの自宅
セントラルパークにて。ビートルズが大好きだったのでジョンの足跡に触れられたような気がして、とても嬉しかったのを覚えてる。
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