少し古い動画だがとても興味深いテーマ。
小さい頃から「フツーじゃない」自分でいたいと思って生きてきた。フツーってなんなのかを深く考えもせず。ちょっとルールを破ったりとか、向いてないのに変わったことしたい、しなきゃ、みたいななんだかよくわからない渇望があった。
振り返ると完璧に頭悪いし、危険である。今だったら動画撮られて炎上してるようなこともあったのではないだろうか。
そう考えて生きてきたから、「常識じゃん」とか「常識がない」とか言われると「は?」みたいになって無駄に鼻息を荒くしていた。「常識ってなに?」みたいに無駄に噛みついてたことも多かった。付き合ってた女性との喧嘩もそんなものが大半だったのではないか。下手すると30代くらいまでそんな感じだった気がする。
インターネット関連のベンチャー界隈で仕事をし始めて、「インターネットビジネスは普通では勝てない、ベンチャーは普通であってはならない」みたいな考え方の風潮もあって、子供の頃からなぜか追い求めていた「フツーじゃない自分である」という謎の渇望が従事する仕事の界隈において認められた、というかフィットした感があって居心地の良さを感じ始めたのを覚えている。
動画中、アラハタさん?という方が言われてる「フツーとは暴力」であるという文脈もとてもよくわかる。この頃は時折、特に仕事やその他もろもろで周りの目線を上げてもらいたいときに、暴力的な言い回しだと認識しつつ「xxするのって普通だから」と言ってしまう自分がいた。パワハラ・モラハラ大賞の受賞資格が十分にあった時代だ。
そんな業界でキャリアを積んでくると、フツーじゃなかったからか、それなりのポジションをいただけたり、ここ何年かはある種「一般的にフツー」ではない仕事の仕方でまあまあやっていけるようになってきた。幼少期から追い求めてた「フツーじゃない」自分を達成したと考えても良いのではないかと思うようになったのはここ5年くらいだと思う。
達成したと思うと不思議なもので、最近はフツーでないことが異常に恥ずかしくなり、急激に「フツー」なフリをし始めているように思う。「フツーじゃない」ことをアピールしてそのポジションをとりにいくフェーズは終わり、「フツーじゃない」ことをしてもフツーなので何も言わないし、むしろ隠す。自分の年齢やご時世もあるのかもしれない。
最近は「フツー」に真っ当なことを目指していて、その難しさを感じることが多い。ここでいう「フツー」は動画中ひろゆきさんが言っていた「フツーに美味しい、ってすごく美味しいって意味じゃないですか」の文脈での「フツー」である。「フツー」に事業を大きくしていく、「フツー」に社会に貢献していく、「フツー」に自分のやりたいことを実現していく、のは楽しいがなんて大変なのだろうと思う。
出発点が変だったのか、出発直後の方向が変だったのか、なぜか遠回りしてきたのが、ここにきてやっと「フツー」になったというだけなのかもしれない。えらい遠回りをしたものである。
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